現在放送中のNHKドラマ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子と結婚した二人の夫との出会いや、どんな人だったのか馴れ初めなどを調べてみました。
虎に翼は主人公のモデルこそ存在するものの、ストーリー自体はフィクションとされています。
そのため、三淵嘉子や二人の夫についての史実を知ってもドラマを楽しむことができるので、三淵嘉子と和田芳夫、三淵乾太郎との出会いや死別の理由について知りたい方は参考にしみてみてください。
三淵嘉子と和田芳夫との出会いや死別の理由は?
まずは嘉子の一人目の夫となる和田芳夫との出会いと死別の理由からご紹介します。
二人が出会った時期は分かりませんでしたが、結婚してからわずか5年という短い期間に芳夫は亡くなっていました。
一人目の夫「和田芳夫」との出会い
三淵嘉子の一人目の夫は1941年(昭和16年)に結婚した和田芳夫です。
この結婚を機に「武藤嘉子」から「和田嘉子」になりました。
和田芳夫はもともと武藤家に何人かいた書生(住み込みで家の雑用をする学生)の一人でした。
芳夫が武藤家にいつ頃来たのかは分かりませんでしたが、初めて出会ったのは恐らく武藤家に書生として住み込みの挨拶をしたタイミングでしょう。
また、芳夫は嘉子の父:貞雄の親友の甥にあたるそうです。
親友の甥と聞くと少し理解に苦しみますが、父:貞雄の親友の兄弟の子供という位置づけになります。
芳夫の性格は大人しかったそうなので、活発だった嘉子は芳夫のそんなところに惹かれていったのかもしれませんね。
嘉子の恋愛話しについても調べてみたんですが、あまり見つからなかったので恋愛に関しては奥手だったのかもしれません。
だとすると、芳夫に対しては一目ぼれというわけではなく、書生として住む芳夫との生活の中で少しずつ惹かれていったのかもしれませんね。
翌1941(昭和16)年11月5日に、実家に書生として出入りしていた和田芳夫(明大卒)と結婚
引用:三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—明治大学史資料センター所長 村上一博(法学部教授)2023.3
ちなみに、三淵嘉子の誕生日は1914年11月13日、芳夫と結婚したのは28歳になる直前でした。
1940年の女性の初婚年齢を調べたところ平均は24.6歳でした。
書生として家にいる芳夫と交際中とは言え、両親としては二人の結婚は待ち遠しかったことでしょう。
一人目の夫「和田芳夫」との死別の理由
1946(昭和21)年5月23日、芳夫が上海から引揚途中に長崎で病死
引用:三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—明治大学史資料センター所長 村上一博(法学部教授)2023.3
芳夫との死別の理由は戦病死(1946年)です。
芳夫と結婚ごは新居で夫婦二人の生活が始まりました。
1943年には長男:芳武が誕生しましたが、翌1945年に中国に召集され、1946年に長崎の陸軍病院において肋膜炎で死亡しています。
和田嘉子とかかれていますが、これは最初に結婚したときの名前です。夫だった和田芳夫さんはその後病死し、嘉子さん本人が生前、「和田の墓にも入りたい」という意思を持っていたため、分骨されて一緒に入っているんです。
嘉子と和田家との関わりについては情報が見つかりませんでしたが、嘉子は生前「和田の墓に入りたい」と言っていたそうで、分骨し和田の墓にも眠っているそうです。
1941年に結婚して戦病死が1946年、芳夫が書生として武藤家で過ごした期間もありますが、幸せな生活はあまりに短かったようですね。
お二人の息子和田芳武さんは東京大学伝染病研究所寄生虫研究部から東京女子医科大学黄瀬中学教室に移り※、寄生虫の研究で多くの成果をあげ2020年に亡くなっています。
※神野潔著,
日本能率協会マネジメントセンター(2024/2/28)三淵嘉子と再婚した三淵乾太郎との出会いと晩年
1956(昭和31)年8月、最高裁調査官であった三淵乾太郎(明治39年生まれ、のち浦和地裁所長、初代最高裁長官三淵忠彦の長男、前妻を病気で亡くし1男3女の子持ちであった)と再婚した。
引用:三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—明治大学史資料センター所長 村上一博(法学部教授)2023.3
嘉子が二人目の夫となる三淵乾太郎と結婚したのは1956年です。
この結婚で「和田嘉子」から「三淵嘉子」へと変わっています。
それぞれ子連れでの再婚だったんですね。
とは言え、嘉子は元夫が戦病死し、乾太郎も元妻を病気で亡くしているという共通点があるので、この辺りが二人を違づけたのかもしれません。
芳武によると、乾太郎が嘉子にべったりで、長女はそれに反発していたようだ。
引用:女性PRIME-伊藤沙莉主演の朝ドラ『虎に翼』のモデル“日本初の女性弁護士”三淵嘉子は肝っ玉母さんで猛女! 最高裁人事局長の「女性裁判官は歓迎しない」発言には直接抗議
ただ、調べてみるとどうも乾太郎が嘉子に惚れ込んでいたと思われる文章を見つけました。
裁判官という職業柄、ずっと二人が一緒にはいられないので、職場が同じあるいは近くなったタイミングで乾太郎の方からアプローチしたのかもしれませんね。
引用:Amazon
嘉子と芳夫や乾太郎との馴れ初めについては上記の本に詳しい内容があったので、気になる方は読んでみてはいかがでしょうか。
なお、嘉子は1984年5月28日午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去※していますが、後を追うように翌85年に乾太郎もこの世を去っています。
※「女性初の家裁所長」『朝日新聞』朝日新聞社、1984年5月29日、夕刊、15面。
次のページでは嘉子、和田芳夫、乾太郎の年の差や死因と何歳でなくなったのかを調べました。
まとめ
現在放送中のNHKドラマ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子と結婚した二人の夫との出会いや、一人目の夫:芳夫との死別の理由などを調べました。
一人目の夫である和田芳夫との出会いは、武藤家に出入りする書生と武藤家の長女として出会っていました。結婚生活はわずか5年という短い期間で終わりを迎えていました。
二人目の夫である三淵乾太郎とは恐らく職場での出会いだと思われ、乾太郎からアプローチしたと思われる記事が見つかりました。
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