NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子(みぶち よしこ)の家族構成は夫の乾太郎と子ども5人の7人家族でした。
5人いた子供の内実子は一人で、4人は再婚相手である乾太郎の連れ子でした。
ここでは三淵嘉子の結婚前の家族構成や初婚時、再婚時の家族構成をまとめました。
分かりやすいように初婚時、再婚時の家族構成を紹介した後に、生まれ育った武藤家の家族構成を紹介します。
三淵嘉子が和田芳夫と結婚した時の家族構成【初婚時】
三淵嘉子の初婚時の家族構成
- 夫:和田芳夫
- 和田嘉子
- 長男:和田芳武
三淵嘉子は後に再婚する乾太郎の性で、初婚時は旧姓「武藤」から最初の夫である「和田」の性を名乗っていました。
和田芳夫は嘉子の実家である武藤家に出入りしていた書生(住み込みで家の雑務をする学生)でした。
また、芳夫は嘉子の父:武藤貞雄の親友の甥にあたるそうです。
1946(昭和21)年5月23日、芳夫が上海から引揚途中に長崎で病死
引用:三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—明治大学史資料センター所長 村上一博(法学部教授)2023.3
二人が結婚したのが1941年、長男芳武の誕生が43年ですが、芳夫は招集され46年に戦病死しています。
三淵嘉子が乾太郎と再婚した時の家族構成【再婚時】
三淵嘉子の再婚時の家族構成
- 夫:三淵乾太郎
- 三淵嘉子
- 長女:那珂(乾太郎の連れ子)
- 次女:奈都(乾太郎の連れ子)
- 三女:麻都(乾太郎の連れ子)
- 長男:力(乾太郎の連れ子)
- 芳武(嘉子の実子)
三淵嘉子は1956年(当時41歳)に9歳上の三淵乾太郎と再婚しています。
この時「和田」性から「三淵」の性に変わっています。
乾太郎は元妻を病気で亡くし4人の連れ子がいて、再婚時に長女の那珂(なか)は結婚して家を出ていた。
奈都が21歳、麻都が18歳、力(ちから)は14歳だったとするネット記事を見かけたんですが、情報源となる書籍などは見つけられませんでした。
生まれた年から考えると芳武はこの時13歳なので、きょうだいの中では一番年下ということになります。
芳武によると、乾太郎が嘉子にべったりで、長女はそれに反発していたようだ。
引用:女性PRIME
娘さんは多感な時期ですし、上記のような記事も見つけました。
嘉子の性格からするとけっこう衝突が多かったのかもしれませんね。
ただ、最初の夫である芳夫は大人しい性格だったそうですし、再婚相手の乾太郎は嘉子にべったりだったそうなので、男運は良かったようです。
次のページでは嘉子に孫はいたのか調べてみました。
三淵嘉子が育った実家・生家「武藤家」の家族構成
三淵嘉子が育った武藤家の家族構成
- 父:武藤(宮武)貞雄
- 母:武藤ノブ
- 武藤良子
- 長男:一郎
- 次男:輝彦
- 三男:晟造
- 四男:泰夫
最期に三淵嘉子が生まれ育った武藤家の家族構成です。
繰り返しになりますが、最初の夫である和田芳夫は武藤家に出入りする書生でした。
ただ、書生は歴代何人もいて、芳夫はその中の一人でした。
和田嘉子とかかれていますが、これは最初に結婚したときの名前です。夫だった和田芳夫さんはその後病死し、嘉子さん本人が生前、「和田の墓にも入りたい」という意思を持っていたため、分骨されて一緒に入っているんです。
没後は嘉子の希望で分骨し、和田家の墓にも入っているので、嘉子にとって芳夫も人生を共にした大切な相手だったことが分かります。
2歳下の長男一郎さんは横浜高等商業学校(現在の横浜国立大学経済学部・経営学部)卒業後、日立製作所に入った後に出征し、妻子を残して戦死。7歳下の次男輝彦さんは後に東京帝国大学文学部(現在の東京大学文学部)を卒業し、昭和化工重役を経て日本煙火協会専務理事となった。9歳下の三男晟造さんは医師に、そして14歳下の泰夫さんは林野庁の職員になって活躍
弟たちも優秀だったようで、帝国大学を卒業したり医師になったそうです。
弟たちの努力があってこそだとは思いますが、正直こうも姉弟で優秀だと、やはり頭の良さってある程度は遺伝で決まってしまうのだなと感じますし、自分の子どもには少し申し訳なく思ってしまいました。
まとめ
NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子の初婚時、再婚時、結婚前の家族構成をまとめました。
特に実子の和田芳武と末弟の武藤泰夫は、数年前相次いで亡くなり
引用:清水聡著,三淵嘉子と家庭裁判所.日本評論社.2023.12, p.3
お子さんや兄弟について調べてみたところ、残念ながら皆さん亡くなっていました。
和田芳夫との出会いや三淵乾太郎との出会い、晩年については別のページで詳しくまとめました。
次のページでは嘉子、和田芳夫、乾太郎の年の差や死因と何歳でなくなったのかを調べました。
コメント